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元日や大樹のもとのひとごころ

白雄自選自筆句集(「春秋稿」八編に模刻)に「東都鶏旦」の前書きがある。江戸の正月を謳歌した作である。句意は、あるがまま表面的に解してもいっこうに苦にならないが、実は裏の意味があるのである。「大樹」は大樹将軍、つまり徳川将軍家をさしている。かつて中国の後漢に馮異(ひょうい)という人がいた。ひと戦の後、余り働かなかった者まで人前に出て手柄話をしていたが、最も戦功の高かった馮異は、一人奥ゆかしく後ろの大樹の下にしりぞいてその話を聞いていた、というのである。このことから日本では将軍や征夷大将軍の異名につかわれている。白雄作は、この故事をふまえて、今日の昌平の世をもたらした徳川家の偉徳をたたえている。また「寄らば大樹のかげ」という俗諺も重ねられているようだ。

このようにみてくると、いささか世俗のにおいが鼻につくが、それはそれ、すなおに表面的に鑑賞しても結構楽しい、上作である。

 

万歳の頤(おとがい)ながき旦かな

天明期に書いた真蹟がある。

頤(おとがい)はあごの先の部分である。地方からやってくる万歳の中に、ひとりあごの長い男がいた。どこかまがぬけて他の職業ならば失笑を買うところだが、まさに万歳は適役。そこ滑稽な顔こそ正月のめでたさ、そのものだ、の意。「ながき」に「いのちながし」(寿)がかけられている。

 

ふえ聞(きい)て睦月半の月夜哉

「睦月」は一月のこと。この句形は、白雄没後はるかのちの「類題狭蓑集」(弘化三年刊)に出るが、これと似た形が神宮文庫本「白雄句集」に次のようにある。

笛にくもるむつき半の月夜哉

長い前書きがないとよくわからないので次に紹介する。

のどかなる宵のほど、ぬる(寝る)はをし、坐せば眠し。ひとびととともにあゆみ出つつ何某(なにがし)の殿ちかく笛竹の声を聞く。笛は横笛とかや、うけ給はりしが心耳合して松風寒し。月はことの外おぼろにて撃柝(げきとう(拍子木))も心ありげに灯火もいとしづけし。

「睦月半の月」は、朧月であった。上の文では「笛竹」とあるが「類題狭蓑集」では「籥(やく)竹」(三孔または六,七孔の笛)とあり、こちらの方が正しい。横笛の音と朧月はよく合っている。「笛にくもる」の方が再案であろう。今宵の月が朧なのは、この笛の音色のせいだというのである。

 

煤(すす)ちるやはや如月の台所

年次不詳作。刊本「しら雄く集」、神宮文庫本「白雄句集」等に入集。

一二月に大掃除をしたのにもう煤が、という感慨である。当時の炊事はすべからく薪であった。四畳ぐらいしかない小さな春秋庵であるから、その台所もたかがしれているのだが、せまい故になおさら天井から垂れ下がった煤などが目に付くのかもしれない。如月は二月のこと、いうまでもなく正月の次の月であるが、にぎやかで、華やかであった正月が過ぎてみると、このようなところについ目がいくのである。はっと日常のペースにもどったということであろう。ありふれた小さなことを詠んでいるが、生活者としての実感が出ていて面白い。生涯独身を通した白雄は、天明時代になると長翠、斜月、雅輔、葛三などの将来プロの俳人になる門人を同居させ、彼らに身近の雑用を任せていた。しかし、所詮は男所帯である。その生活ぶりも想像できる。

 

蝋燭(ろうそく)のにほふ雛(ひひな)の雨夜かな

刊本「しら雄く集」、神宮文庫本「白雄句集」所載。年次不詳作。

せっかくの雛祭の夜も雨にたたられてしまい、子供たちもすでに床についた。雨戸越しに来る風が、かすかにぼんぼりのロウソクの灯をゆらす。雛壇に居並ぶ白々とした雛の顔もゆらめく影を得て何か生き物のようにみえる。ロウソクの鼻につく匂いがこの句を妙にリアルなものにしている。あやしく、官能的な作品だ。

白雄は花の王者といわれる牡丹について、

園くらき夜をしづかなる牡丹哉

と、あえて夜の姿を描いた。華やかな女の節句雛祭についても、

夜をてらす燭さしむけよ雛の眉

など、夜を詠んだものが多い。一趣向をねらったものであろうが、そこには他の作家にない白雄の屈折した視点というものを感じる。

 

春風や灰まきちらす作男

明和七年、鳥明編の「追善卯月の鳥」や同年刊「庚寅歳旦」(柴居編)に出句する初期の作。

灰をまき散らすのは、畑の雪解けを促進させたり、肥料のためであろう。長い冬から解放されて、やっと畑に出られた喜びが「まきちらす」という言葉に込められているようだ。

 

ふるさとや梅に柳にはなしあり

白雄の贈答句ばかりを集めた句集「白雄贈答」という写本の巻頭に「としありてこのかみ(兄)の家に遊ぶ」の前書きで出ている。この句集は、だいたい制作順に配列されているが、白雄が俳人として出発したのは明和二年(一七六五)、明和二年加舎家(父は既にこの世にはなく、兄吉重が当主であった)は、上田にあった。したがってこの”ふるさと”は、上田でなければならない。明和二年以降白雄が信州上田を訪れたのは、二年後の明和四年一月のことである。旧暦であるから早咲きの梅は考えられるが柳の芽吹きはどうであろうか。伝記的に考察すれば、どうしても明和四年春の作である。

 

ひと恋し火とぼしころを桜ちる

安永元年(一七七二)三月、吉野山での作。初案は「もの恋し火ともしころをちる桜」である。三回忌に門人碩布によって刊行された「しら雄く集」では、

人恋し灯ともしころをさくらちる

と、初案、改案を混同して表記している。もともと「しら雄く集」は、誤りの多い句集で刊行直後、同門間にあまり評判が良くなかった。「灯」の表記も、白雄自筆形はすべて「火」で記されている。

白雄一代の代表作であるが、没後向島に建碑されたためか、従来江戸での詠のように解されてきた。一句は正しく、紀行文「吉野山紀行」の中で読み直されねばならない。句中の「ひと」は、実は白雄の知人や現実の人ではなく、吉野の哀史を彩るけなげな南朝のもののふや歌僧西行をさす。現実に散る花をみながら、白雄の心ははるか歴史のかなたをみつめていた。

 

蝶とぶやあらひあげたる流しもと

刊本「しら雄く集」、神宮文庫本「白雄句集」等に同形所載。年次不詳作。

白雄の蝶を詠んだ作品は、都合十八句ほどあるが、他の季にくらべ秀作が多いように思われる。

酒くさき人に蝶舞ふすだれ哉

はつ蝶のちゐさくも物にまぎれざる

夕風や野川を蝶の越しより

最後の句は大岡信も「折々のうた」でとりあげ、大部ほめていた。

最初の揚出句「蝶とぶや」は、台所に迷い込んだ蝶の姿を描いているが、同趣の作に

から鮭にてふ舞(まう)昼の廚(くりや)かな

がある。春秋庵の小さな台所の様であろう。天井からぶら下げた食べ残りの乾鮭に、迷い込んだ蝶がひらひらと戯れている。奇妙な情景である。ここはやはり紋黄蝶であろうか。

 

鳳巾(いかのぼり)空見てものはおもはざる

刊本の「しら雄く集」、神宮文庫本「白雄句集」等に所載。制作年次不詳。

鳳巾は、凧のこと。蕪村に

凧(いかのぼり)きのふの空のありどころ

という句があるが、あるいは白雄はこの作を念頭においていたのだろうか。蕪村作にはどこかそこはかと人生の寂しさのようなものがうたわれているが、白雄作はどうであろう。遠く、白々と一つだけ輝いている凧をみて白雄も、何か語りたい欲求が湧き起こったはずだ。しかし敢えて「ものおもはざる」ときっぱり断定、宣言している。寂しさを敢えて振り払おうとするかのように。

青空に漂う白い一点、その一点は凧でも鳥でも何でもよい、人の心をはるか遠くに誘うものだ。

白鳥はかなしからずや空のあお 海のあおにも染まず漂う

その孤独感を拒否したところに白雄の強さや生の秘密があるように思われる。

 

さうぶ湯やさうぶ寄くる乳のあたり

刊本「しら雄く集」所載。この刊本より一年前に成立した神宮文庫本「白雄句集」では中七が「あやめ寄来る」とある。この場合の「あやめ」は、現在のアヤメではない。昔は菖蒲を「あやめ」とよむこともあったのだ。

この句は代表作としてしばしば登場するが、江戸時代にしては妙に官能的な作品である。

 

啼けばなくふたつの山のかんこ鳥

天明四年成立の松風庵玉斧の手控(無題)にみえるから同年以前の作である。

かんこ鳥は、現在カッコー鳥をいうが、かつては閑古鳥とかいてホトトギスも意味した。ここではむろんカッコー鳥である。谷のように二つの山が向かい合っている。一方の山でカッコーがなくと、それに相応ずるがごとく反対の山でも一羽のカッコーがなきだした、の意。

芭蕉作、

憂き我を寂しがらせよ閑古鳥

のように、その鳴き声は、どこか哀切で人の心をとらえるものがある。白雄の句も孤独同志の交歓を思わせるが、ほのかに相聞の響きも感じられる。